先日、以前から好意にしている焼肉店を訪れた。炭火焼肉を売りにしながら、どこか居酒屋のような柔らかさも併せ持つ店で、価格帯もこの手の焼肉店としては特別安いわけでも高いわけでもない。にもかかわらず、足が自然と向いてしまう理由があるとすれば、それは料理よりも、むしろ「人」にある。
挨拶や言葉遣いが丁寧なのはもちろんのこと、飲食している客の様子をよく見ていて、声をかけるタイミングや距離感が実に心地よい。店内を見渡すと、若いアルバイト店員たちがどこか楽しそうに働いており、その中心には店長の存在があるように感じられた。きっと、余計な緊張や萎縮をさせない環境が整っているのだろう。楽しく仕事ができるからこそ、接客そのものに意識を向ける余裕が生まれているのだと思った。
そんな店で前回ひとつの出来事があった。
提供されたグラスの口元が、わずかに欠けていたのだ。
危険を感じ店員を呼ぶと、若い女性のアルバイト店員と思しき人がすぐに駆け寄ってきた。怪我はなかったかと真っ先に気遣い、危険な状態のグラスを提供してしまったことを、迷いなく、そして深く謝罪してくれた。こちらとしては決してクレームをつけるつもりなどなく、単に伝えたかっただけだったのだが、その真摯な対応に、かえってこちらが恐縮してしまったほどだった。
食事を終えレジへ向かうと、今度は店長が駆け付けてきた。先ほどのグラスの件について、再度、丁寧に謝罪をされた。その声のトーン、表情、言葉の選び方からは、形式的ではない「心からの謝罪」がはっきりと伝わってきた。私は思わず店長の肩を軽く叩き、「そんなに気にしていないし、また必ず来るから」と伝えた。店長は店の外まで出て、深々と頭を下げた。その姿を見て、申し訳なさと同時に、この店を信頼してよいのだという思いが、静かに胸に広がった。
そして先日、再びその焼肉店を訪れた。すると今度は、提供された肉の隙間から小さなビニール片が顔を出しているのに気づいた。飲食店としては決してあってはならない出来事であり、本来であればすぐに店員を呼ぶべき場面だったのかもしれない。しかし、前回の光景が頭をよぎり、私はどうしても声をかけることができなかった。あのときの店長の深い謝罪の姿勢や、若い店員の真剣な表情が浮かび、もう一度あの姿を見なければならないことが、どうしても忍びなかったのだ。
私はそのビニール片を、店員の目に触れないよう、そっと割り箸の袋にしまった。
それを見ていた友人から「心が広いね」と言われたが、決してそういうことではない。一生懸命に働く人たちがいて、誠実に店を守ろうとしている人がいる。その姿を知ってしまった以上、簡単に声を荒らげることができなかっただけなのだ。
人がすることに完璧はない。
家族であれば笑って済ませることを、他人に対しては鬼の首を取ったように責め立てる場面を、私たちは日常であまりにも多く見ている。この焼肉店の従業員たちを見ている限り、決していい加減な仕事をしているようには思えなかった。たまたま重なった出来事であれば、それでいいではないかと、私は思う。
この店は、これからさらに人気が出ていくだろう。
そしていつか常連客として顔を覚えてもらい、クレームではなく「共有」として、そっと耳打ちできる関係が築けたなら、そのとき初めて、あのビニール片の話をしてみようと思っている。頭を下げる姿に誠実さを感じた店だからこそ、こちらもまた誠実でありたいと感じた夜だった。

