大人になると、本当の友達ができにくくなる。
そんな感覚を抱いたことはないだろうか。
表面上は穏やかに付き合い、無難に会話も成立している。それでも、ある日ふとした言動をきっかけに、相手の存在が急に煩わしく感じられてしまう。これまで何度も経験してきたことだ。
初対面のころは、誰しも慎重だ。相手に気を遣い、自分の言葉や態度を抑え、無意識のうちに相手に合わせて振る舞う。そうすることで、人間関係は一応の形を保つ。しかし時間が経ち関係に慣れが生じると、次第に自己主張や思い込みが顔を出す。最初は受け流せていた些細な違和感も、積み重なるうちに心の中で引っかかりとなり、やがて関係そのものを見直す理由になってしまう。
利害関係がなければ、その関係は驚くほどあっさりと終わる。
大人の人間関係とは、案外その程度の強度なのかもしれない。
思い返せば、子どものころはもっと単純だった。気遣いができなかった分、相手と真正面からぶつかり合っていた。本音で向き合い、喧嘩もしたが、その分だけ関係は濃く、長く続いた。私には今でも幼少期からの友人がいるが、それはきっと、損得や保身とは無縁の関係だったからだろう。
大人になるにつれ、自己保身やプライド、そして自分なりの常識が、人と人との間に割り込んでくる。実は、相手を嫌になっているのではなく、自分自身の言動が相手に影響を与え、その反応を見て「嫌な相手だ」と感じてしまっているだけなのかもしれない。そう考えるようになってから、人間関係の見え方が少し変わった。
他人とは、生きてきた人生そのものが違う。
無理に合わせ続ければ、いずれどこかに綻びが生じる。だからこそ、常に本気で、そして本心で向き合うことが大切なのだと思う。そうして残った相手こそが気兼ねなく付き合える、いわば心の友人なのではないだろうか。
最近、ひとつ気づいたことがある。
それは、自己主張を押し通すことよりも、目の前にある事実を拒まず受け入れるほうが、ずっと楽だということだ。言葉にすれば簡単だが、実行するのは難しい。嫌な出来事や思い通りにならない状況に直面したとき、怒りをぶつける代わりに、「いまはこの時ではない」と心の中でつぶやいてみる。そうするだけで、次に訪れる小さな喜びが、以前よりも大きく感じられることがある。
他人とは、決して完全に分かり合える存在ではない。それでも共存していくためには、どこかで自己犠牲的な姿勢が必要なのだろう。自分さえ良ければいいのではなく、周囲に目を配り、自分は後でもいいと考える。その意識を持つようになってから、気持ちは驚くほど軽くなった。
これまで怒りっぽかった自分が、少しずつ穏やかになっていくのを感じている。
そして今、思うのだ。
この歳になってからでも、何でも話せる真の友人を、もう一人くらい作れたらいい。そんな願いを、静かに胸に抱く今日このごろである。

