寸景随想#17 交通事故の風景から見えた“ゆとり”を失った運転がもたらす影

寸景随想-コラム-

先日、私の目の前で二台の車が激しくぶつかった。

衝撃音が響き一瞬胸が凍りついたが、運転手はすぐに車外に出て、互いの車体を冷静に確認していた。大事には至らなかったようで、胸を撫で下ろした。

しかしこの数年の出来事を振り返ると、どうにも胸のざわつきが消えない。

私は30歳半ばまで東京都内で暮らし、15年以上にわたり都心の狭い道路を運転してきた。自転車も歩行者も多く、車の走行環境は厳しい。しかし、その15年間で、目の前で交通事故を目撃したことは一度もなかった。ところが、今の土地に移り住んで10年ほどになるが、目の前の事故だけでも数回、事故直後の現場を見たことも数回ある。

道路環境が極端に悪いわけではない。むしろ交通量は都会より少ない。それでも事故が多いように見えるのは、どうやら道路の構造ではなく、運転手の“心”の問題が根底にあるのだと感じ始めている。

引っ越してすぐに気付いたのが、「運転にゆとりがない」ということだった。

相手に道を譲る、待つ、そんな当たり前の行為が、まるで“負け”であるかのように扱われる。わずかな隙間を見つけると直進車の前に割り込み、相手にブレーキを踏ませる。自分は減速したくない。スピードを落とすことが何より嫌なのだと、運転の挙動そのものが語っているようだった。

とりわけ恐怖を感じるのは交差点だ。

一般的に「交差点は中心付近で徐行し、大きく回り込む」が基本だが、こちらではその基本が崩れやすい。ほとんど減速せず、斜めに切り込みながら対向車線をまたいで勢いよく侵入してくる。こちらが何気なく直進していると、急ブレーキを強いられる。

危ない瞬間に遭遇するたび、“事故を避けるためにこちらがブレーキを踏む”という関係性が浮かび上がる。逆に言えば、“相手が止まればいい”という前提で運転している人が確実に存在するということだ。

そんな運転姿勢の延長線上に、事故の現場がある。

先日も、中学生が自転車で直進していたところを車に跳ねられ、痛みに顔を歪めて倒れる姿を目にした。胸が締め付けられた。私は高校時代、仲の良かった友人の姉が交通事故で亡くなった経験がある。あのときの家族の悲しみや崩れる日常を目の当たりにし、その痛みが“決して癒えることのない種類の悲しみ”であることを知った。

交通事故は誰かの人生を根本から変えてしまう出来事だ。

私は自分自身、安全確認をしつこいほど行う。だが、それでも疲れや眠気、天候の悪化などによって危ない瞬間が訪れることがある。どれだけ注意しても避けられない事故もあるだろう。だが、防げる事故は確実に存在し、その努力は怠ってはならない。

目の前の事故を見ながら、私は思った。

道路に危険を生むのは、運転技術ではなく“運転手の心”なのだと。

ほんの数秒のゆとりを持つだけで、救われる命がある。
それは大袈裟な話ではなく、今日ハンドルを握ったすべての人に関わる、静かな事実だろう。

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