寸景随想#14 便利さの裏にあるもの、Amazonが届けてくれた小さな問い

寸景随想-コラム-

先日、長年愛用していた家電がとうとう壊れた。

久しぶりにAmazonで新しいものを購入しようと思い立ったが、その前に価格を調べてみると、だいたいの相場が見えてきた。ちょうど手元に使っていない商品券が数千円分あったので、近くの家電量販店へ向かった。

お目当ての商品は店頭にもあった。だが、Amazonの価格よりも明らかに高い。商品券を使えば支払額自体は少なく済むものの、どうしてもその価格差が頭に引っかかった。結局、購入を見送り、家に帰ってAmazonで注文することにした。

かつてネット通販のデメリットといえば、実際に手に取って確かめられないこと、すぐには手に入らないことだった。だが、今では通販がその不便さをほとんど埋めてしまった。即日配送、正確なレビュー、安心できる支払い方法。もはや「安くて届くのが遅い通販」という時代ではない。

私はAmazonのPrime会員で、注文した商品は最短で翌日に届く。支払いもデビットカードやPayPayで即時に完了する。購入ボタンを押してから、数分後には発送通知が届き、配送状況がリアルタイムで表示される。驚いたのは、配達員が今どのあたりを走っているのか、あと何件で自分の家に着くのかまで地図で分かることだった。

確かに便利だ。だが、同時に少し息苦しさも覚えた。

ここまで監視の目が届く社会の中で、配達員はどんな気持ちで走っているのだろうか。便利さの裏には、見えない努力や重圧がある。利用者が「あと3軒先だ」と知るたび、どこかで誰かが急かされているのかもしれない。

今回購入したのは、わずか数千円程度の家電だった。
それでも翌日には玄関前に届き、置き配の写真がメールで届いた。わざわざ誰とも会うことなく、欲しいものが届く。便利さの極致だと思う。だが、ふと感じたのは「ありがとう」と伝える機会の喪失だった。

かつては、荷物を受け取るたびに配達員と顔を合わせ、互いに一言だけでも言葉を交わした。

「ご苦労さまです」「ありがとうございます」。そのやり取りの中に、確かに人と人との関係があった。いまはそれすらも省略できる。快適で、効率的で、だが少し寂しい。

翌日、届いた箱を開けて目的の品を手に取ったとき、思わず微笑んだ。

壊れたものが新しくなる喜びよりも、便利さの裏にある誰かの手間と汗に思いを馳せた。
私たちの暮らしは確かに豊かになった。だが、その陰で見えなくなった「ありがとう」は、どこに行ったのだろう。

 

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