先日、自宅マンションで水が出なくなった。原因は落雷による設備の故障だった。水道の蛇口をひねっても一滴も出ないという経験は、これまでの暮らしでは想像もしていなかった不便さを突きつけてきた。
手も洗えない、頭も洗えない、風呂に入れない、トイレも流せない。今回の一件で、当たり前に思っていた水の存在がいかに大切かを痛感させられた。そして同時に、「いざという時に備える」という意識の必要性を改めて考えさせられた。
普段は日常に流され、緊急時の備えについて考えることを意図的に遠ざけていた。考えれば不安になるから、考えないようにしていたのかもしれない。だが断水の不便を経験した後では、意識が大きく変わった。
先日、買い物で立ち寄ったホームセンターで「災害時に使える水のタンク」が目に入った。容量は十分で価格は1つ1000円程度。飲料用と生活用として最低2つは必要だと感じ、2000円を支払うことにためらいはなかった。以前の私であれば「また今度」と見過ごしていたかもしれないが、今は違う。購入したタンクを自宅に持ち帰り、すぐに取り出せる場所に保管した。
思えば、私はこれまでも災害に遭ってきた。かつて大雨でトイレの水が逆流し、使えなくなったことがある。その経験から仮設トイレや非常用のアルファ米、ペットボトルの水は備えてきた。しかし今回の断水で気づいたのは、「飲み水だけでは足りない」という事実だ。手を洗う、体を拭く、頭を洗う。日常の清潔さを保つ水もまた不可欠なのだ。
備えを整えた今、私はようやく安心感を得ることができた。災害は起こってほしくない。だが、もしもの時に備えることは保険に入るのと同じである。必要にならなければそれで良い。だが、いざという時にあるのとないのとでは、生活の質も心の安定もまるで違う。
こうした備えを日常からしている人は、まだ多くはないだろう。だが、水道の蛇口をひねっても水が出ない、そんな日がいつ自分の身に降りかかるかわからない。だからこそ、ぜひ一度は「備えることの意味」について考えてみてほしい。