ボウリング場には独特の静寂がある。歓声が上がる瞬間もあれば、ピンがはじけ飛ぶ音にすら思考が中断されるような、緊張の静けさもある。競技としてボウリングに取り組む者にとって、この“静けさ”は集中の証でもあり、ある種の儀式のようでもある。
だが、その集中が、時に行き過ぎた“潔癖”へと転じることがある。
マイボールを手にしたボウラーたちは、その球をまるで己の分身のように扱う。1個3万、4万円。表面には、彼らのこだわりと誇りが詰まっている。だが、いかに大切にしても、投げた先には堅いピンがあり、機械が待っている。衝突と摩擦の中で、表面に細かな傷が刻まれることは避けようがない。
ある日、隣レーンで小さなトラブルが起きた。返球されたボールの側面に、ほんのかすり傷があったのだ。持ち主の中年ボウラーは、顔色を変え、怒気を露わにしてスタッフを呼びつけた。まるで人の心に傷をつけられたかのような反応だった。
ふと、昔あるプロボウラーが語った言葉を思い出す。
「そんなに大事なボールなら、家に飾っておけばいい」
まさに至言である。道具とは、使われるためにある。使うとは、擦り減らし、馴染ませ、時に痛めることでもある。むしろその傷こそが、日々の精進の証ではなかったか。
私たちはしばしば、「大切なものを守りたい」という思いに駆られて、本来の意味を見失ってしまう。守るあまり、使えなくなる。傷を避けるあまり、心まで頑なになる。
それはボールだけの話ではない。人間関係もまた、似たようなものだ。失敗を恐れ、衝突を避けるうちに、互いの本音に触れることすらなくなる。そして、かすり傷のような言葉に過敏になり、怒りを覚える。
道具の傷にさえ寛容でいられない心が、人の未熟さを映し出しているのかもしれない。
使えば傷つく。だからこそ、道具には物語が宿る。
傷を恐れるのではなく、受け入れていく姿勢の中に、ほんとうの美しさがあると、私は思いたい。